#291. ビールもう一杯

2000-01-27

浅草・アサヒ江戸前ビアホール
虚無の歌

午後の三時。広漠とした広間の中で、私はひとり麦酒を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さへもない。煖炉は明るく燃え、扉の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓、脚の細い椅子の数数。
ヱビス橋の側に近く、此所の侘しいビヤホールに来て、私は何を待つてるのだらう? 恋人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街街を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麦酒と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。

-- 萩原朔太郎

居場所を求めて浅草の吾妻橋の袂まで。午後三時のビアホールには、僕と地元のご隠居らしい人とマネージャーとウェイトレスだけ。東京の地ビールを飲みながら、ぼんやりとする。明るい陽光に、ビールの醸造器のあかがねの表面が光っている。

少し離れた席でのご隠居とマネージャーとの会話を聞くともなしに聞いている。ああ久しぶりに飲んだな…もうゆっくりすればいいじゃないですか…いやこんど孫が…

暖房は十分に利いている。このまま眠り込んでしまいたいような気分で、僕は、もう一杯ビールを頼んだものかどうか、迷っている。

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